最終更新日:05.03.21
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富永茂樹『理性の使用−ひとはいかにして市民となるのか−』みすず書房 2005年 ISBN:4622071304

(c)みすず書房
 カントは『啓蒙とは何か』の中で「自分自身の悟性を使用する勇気をもて!」と述べると同時に、人間の自由を実現する「理性の公的な使用」は啓蒙専制君主の手で、また君主への服従をとおしてはじめて可能となると論じた。本書は、“「理性の使用」を通じて人間が市民となるということはどういうことなのか”という近代社会がその誕生の時からもつ根源的な問いに対して、あるいはその問題の問い方そのものに関して、フランスの一八世紀後半から革命期における知識人達の言説を詳細に検討しながら、スリリングに論じていく。

 本書では、狂人の社会化をめぐる問題、中間集団に関する問題、そして会話から議論への変化というコミュニケーションのあり方の問題についての諸言説が中心的に取り扱われている。そこで明らかとなったことは、「理性の使用」を論じた人々の観念のなかには、「新たに市民として再生したはずの人間がなにをすればよいのかについての像が欠如している」ことであった。すなわち、「「すべて」でありながら「無」でしかなかった存在が「なにものか」になるとして、そのなにものかとはいったいどのような存在なのか。至上命令として課せられる人間の市民化と、そのほとんど完全な不可能ないし困難」(二五一ページ)が白日の下に晒されていく。

 本書における詳細なテキスト・クリティークによれば、ユルゲン・ハバーマスが『公共性の構造転換』で論じたように、ヨーロッパにおいて公権力の統制からの解放がやがて私有圏としての市民社会を生み出し、それが市民的法治国家による政治的公共圏の発展を促したとするようなとらえ方や、そこに至る過程における世論の役割に対して、否定的であるしかないことは明らかであろう。逆に本書が浮かび上がらせているのは、フランス革命期における「公共空間」の存在の不可能性であり、「近くにいることを必要としない」公衆という抽象的な集合体にあっては、身振り手振りも含むコミュニケイションがなされる具体的で活き活きとした空間が失われていかざるをえないという事実なのである。

 最後に引かれているカントの美しい比喩(「船と駱駝、この砂漠の船舶とがコミュニケイションを取り戻し、表面を共同で利用するという人類全体の権利の行使を可能にしてくれる」)は、確かにわれわれにその進むべき方向を提示してくれてはいる。しかし、その具体像はいまだ見えてきてはいない。そこに「理性の使用」に関する歴史的探求がより一層必要とされるゆえんがある。

『週刊東洋経済』2005年3月19日号掲載


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