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今日は節分。
近年、東京でも節分の日に恵方を向いて巻き寿司をまるかぶりすると一年間無病息災という風習が広まっているようだが、少なくとも自分が子供の頃にはそんなんなかった。
ウェッブで調べてみると、どこも「1977年に大阪海苔問屋協同組合が節分のイベントとして道頓堀で実施したのをマスコミが取り上げ、早速全国のお寿司屋さんがそれに便乗して全国に広まったということのようです。この日大阪梅田の阪神百貨店では巻き寿司が4万本売れるとのこと。」との説明がなされているが、伝聞の域を出ない。ただ、こちらでは朝日新聞の94年2月1日夕刊の記事を引用してある。一応、朝日新聞が取材の際に裏をちゃんと取ったと考えれば、大阪海苔問屋協同組合という団体が、この風習の仕掛け人ということは信じてよさそうだ。
もっとも、朝日新聞も案外ウェッブで検索してお手軽に記事を書いたとも考えられなくもないが、94年であればまだネット自体が一般的ではなかっただろうから、それはないだろうと予想する。
ところで、日本で現在のような乾海苔が庶民一般に食されるようになったのは、江戸時代中期以降。もともと江戸湾では海苔が取れたが、初期の頃は乾物ではなく、いわゆる生海苔を食した。「浅草海苔」という名称は、海苔の代名詞のようになっているが、もちろんこれは浅草で獲れた海苔ではなく、当初は浅草で「売られた」海苔を指していた。葛西や品川の生海苔が浅草寺門前に運ばれ、そこで多少の加工を加えられて売られたらしい。「浅草海苔」の命名者は、天海大僧正だという説もある。
やがて享保の頃、浅草の紙すきの技法を海苔に応用した「漉海苔」(すきのり)が開発され、また隅田川河口で養殖生産がはじまると、経済的にも豊かになりつつあった江戸庶民の間に一挙に広まった。さらに隅田川河口は江戸の人口が拡大するにつれ、「栄養」豊かになっていき(笑)、益々美味しい海苔がつくられるようになっていく。
また海苔の普及には、庶民の仏教信仰とそれに伴う精進料理の普及が切っても切り離せない。とくに関西では干瓢、干し椎茸、高野豆腐、ほうれん草などを具にして漉海苔で巻いた巻き寿司が好まれ、海苔の需要拡大に一役買った。大坂天満の乾物問屋にはやがて浅草海苔のみならず、全国の海苔養殖産地から海苔が集まってくる。
面白いのは海苔の養殖技術が、信州諏訪の商人達などの手によっても全国に広まったらしいこと。産土神である諏訪大社の「御天井の水」や(神社の庭の)「お砂」を、産地の人々は霊験あらたかなものとしてありがたがった。
さて以上の叙述は、宮下章『ものと人間の文化史11 海藻』(法政大学出版局、1974年)を参照したが、明治以降の話はあまり書かれていないのが、残念。日清・日露戦争から第一次大戦までの時期に海苔の需要が拡大したとあるが、詳しくは省かれている。私が調べたところによると、明治30年代末までは海苔の産額の圧倒的トップは東京である。とくに日露戦争あたりを画期として海苔の産額自体が急上昇する。このあたりの詳しい経緯はもうちょっと調べてみる必要があろう。
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